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日本人の心にも存在する「神」

今晩は。rieruです。

日本は無宗教の国と言われている。科学的な根拠のない話について「それは宗教だ」という言われ方をしたりもする。だが、そんな国にも「神」が存在する。例えばスポーツの世界などでは理屈では説明できないような奇跡的なことが起こると「○○の神様が味方してくれた」というような発言をよく聞く。そしてそれに対して「非科学的だ」と非難されることもない。勿論、これは単なる比喩表現という理解が一般的だろうし、発言の当事者も意識の中で明確に「○○の神」が存在すると確信しているかというとそうではなく、「○○の神様がいて、味方してくれたと思いたくなるほど非日常的なことが起こった」という意味でこの言葉を使っているように思う。

ただ、本当にそれだけだろうか。私の感覚の中では、神を信じると信じないに関わらず人は潜在的に「人を超越した存在(端的には神的なもの)」を感じて生きているように見える。聖書には人の罪について下記のように書かれている。

こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
‭‭使徒行伝‬ ‭17‬:‭27‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/act.17.27.口語訳

聖書はまずここで「神が人の近くにおられること」を明らかにしている。また、別の個所では下記のように記されている。

神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。
‭‭使徒行伝‬ ‭14‬:‭16‬-‭17‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/act.14.16-17.口語訳

ここで聖書はは、神が「人に実りの季節を与えてその心を満たすこと」通じてご自身の存在を世に明らかにしてきたと述べている。更には別に下記のように記されている。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭1‬:‭20‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/rom.1.20.口語訳

これは人の世界で「自然」と言われているすべての者は神の創造物であって、その創造物には神の力が働いている。その力を見た時に人はその神の力を否定できないという意味である。実は聖書によれば、「人は神の力を示すものに日々触れて生きており、人間が造ったものはすべて神の創造物を加工したものに過ぎず人は完全な無から有を創り出すことはできない」のである。その神の力を示すものに日々触れている人は、神の存在を信じないとしても心のどこかで神の力を感じて生きている。それ故に全く「神から離れて」生きることが出来ないのではないかというのが私の感じるところである。

私自身の経験値としては、幼い時から聖書に触れて生きてきたので「神について考える事」が日常であったし、神の存在をなんとなくではあるが感じて生きてきた。ある時それが確信に変わるわけだが、これは全く聖書を知らない環境で育った人に当てはまるのか否か分からない。ただ、もしこれをお読みの方で自分の心の中にあるものを精査した結果「何かしらの人を超越した神的存在」があると感じる人がいたならば、一度聖書を読んで聖書が伝える神が存在し得るのかということを真剣に考えてみてほしいと思う。その結果、聖書が語る神の存在はその人の心に明らかになる時が来ると私は信じているからだ。

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