今晩は。rieruです。
だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。 神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。
使徒行伝 20:26-27 口語訳
https://bible.com/bible/1820/act.20.26-27.口語訳
これは使徒パウロがエペソのクリスチャンに敵を警戒するよう諭した時の言葉の一部だが、ここに神のクリスチャンに対する評価基準の特徴が現れている。それは指導者と指導を受ける者の責任が明確に分かれているということである。この場面におけるパウロは「神み旨」を全部伝えたのだから「指導者の責任においてなすべきことはすべて終わっている。後は指導を受けた側の責任である」と言っているのである。
なかなか、ここまで明確に責任を切り分けるという事はできない。ある組織で不祥事があると直接ミスをした者だけでなく、上役も監督不行き届きという理由で処罰されたりすることが多いが、神とクリスチャンの関係では指導者の責任と指導を受けた側の責任は明確に切り分けられる。それ故にパウロは指導者としての責任を果たした時に「後は聞いた側の責任」と宣言することができたのである。
ある意味では、指導者の側が結果について責任を負わなくても良いので楽なように見える。しかしながら、「後は聞いた側の責任」と宣言するためには神のみ旨を「皆あますところなく」伝える必要がある。その一部でも欠けがあるならば、たとえ結果が良くても「伝える側の責任」を果たしているとは言えず、そのことについては厳しい神の審判が下される。神は人がコントロールできない「他人の事」については責任を問わないが、自らがコントロールできることについてはトコトンその責任を追及される。ある意味では厳しく、ある意味では公平な評価基準である。
一クリスチャンとしては、自らの責任となる範疇に関しては最大限それを果たして行きたい。
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