兵役に例えられるキリスト者の信仰生活

今日は。rieruです。

聖書は「信仰者の戦い」について以下のように語っている。

キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。

‭‭テモテへの第二の手紙‬ ‭2‬:‭3‬-‭4‬ 口語訳, bible.comより引用,2024年6月16日最終アクセス

キリスト者の信仰生活が「兵役」に例えられるというのはいささか物騒であるが、ここで聖書が語っていることは「物理的な殺し合いをしろ」という意味ではない。それはキリスト者の信仰生活は「いのちがけである」という事である。当時の信仰生活は迫害によって文字通り「いのちがけ」であった。しかし、今でもその本質は変わらない。クリスチャンの信仰生活は神を「全身全霊で」愛することが基本である。それは自らの全てを捧げるということであり、それは「いのちがけ」と言っても過言ではない。

兵役についているものはいのちがけであると同じくらいの熱量で日常を神に捧げているか。そのことを考えるといささか恥ずかしくなる。今の日本はある意味でクリスチャンに取ってぬるま湯であるかもしれない。信仰生活を送ることで死の危険を感じようなことはない。それは幸いなことだが、それによってクリスチャンが怠惰になるとすれば筋が違う。例え物理的に命の危険を感じるような状況でなくとも信仰生活はいのちを燃やすほどの熱量が必要である。兵役に例えられる信仰生活の厳粛さや厳しさを改めて認識したい。

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