今日は。rieruです。
聖書は人の人生のはじめと終わりについて以下のように語っている。
わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
テモテへの第一の手紙 6:7 口語訳, bible.comより引用,2024年5月5日最終閲覧
考えて見ると当たり前の話だが、この言葉は人に取って「何が大切か」という事について示唆に富む言葉ではないだろうか。現代は「モノ」については日進月歩で進化している時代である。30年ぐらいの事を考えて見ても一人一台「スマートフォン」というコンピュータを持ち歩く時代が来るとは世間の大多数が想像できなかった時代があった。しかもそれははるか昔の話ではなく、今の中学生の親世代ぐらいはリアルタイムで知っている時代である。それぐらい近年の技術進歩による「モノの進化」は速い。
しかしながら、それは「真に大切なもの・こと」なのだろうかそれが冒頭の聖書の言葉が投げかける疑問である。人は「モノ」を持って世に生まれてこないし、「モノ」を持ってこの世を去ることができない。そう考えた時に「モノ」が人に取って「最も大切」と考えるのは早計かもしれない。
モノ以外にもこの世から持ち出すことのできない「もの・こと」は沢山ある。例えば家族の愛情や友人との大切な思い出、仕事で成し遂げたことや名声なども「生まれた時に持ってきたもの・こと」ではないし、「この世を去る時に持って出ることはできないもの・こと」である。
では、聖書は「この世を去る時に持って出ることできるもの・こと」として何があると言っているのか。それは「永遠のいのち」である。その事については毎週YouTubeの動画にて発信しているので、詳しくはそちらをお聞き頂きたいが、少なくとも聖書は人が人生を終える時にも価値が残り続けるものについて語っているという事を頭の片隅に置いて頂ければ幸いである。
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