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死刑制度に対するクリスチャンの取るべき態度。

今晩は。rieruです。

今日は死刑という刑罰にに対するクリスチャンの立場について語りたい。まず死刑について考える場合基本となるのは下記の聖書の言葉である。

「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」
‭‭ヨハネの第一の手紙‬ ‭3:15‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1jn.3.15.口語訳

人殺しには永遠のいのちがない。つまり人を殺す者はクリスチャンではない。それは死刑によって人を殺す事を望むのもクリスチャンとして相応しくない事を示す。しかし、それでも自分の愛する人に危害を加えるものへの復讐心がクリスチャンのうちにないかと言うとそうではない。そこでクリスチャンが心に止めるべきは下記の聖書の言葉である。

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭12:19‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.12.19.口語訳

復讐は神に任せる。これがクリスチャンに求められている態度である。復讐を神に任せる事ができるのは簡単ではないが、これを実践出来た時本当の意味で復讐から人は解放される。他人に刑罰を加える事が本質的な問題の解決にならないとしても何もなく復讐心から解放されるのは難しい。それを本当の意味で神に任せる事ができたら、それこそ復讐心の呪縛を解く事ができる。それはある意味クリスチャンの特権である。

ところで、聖書は「目には目を歯には歯を」と教えているのでは?と思われる方もおられるかもしれない。しかし、それは旧約聖書の時代の教えである。この命令は下記の通りイエス・キリストによって改訂されている。クリスチャンはキリストを主と崇めるものであり、キリストの言葉によって明確に変更が加えられた目に目をという教えには束縛されないものである。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭5:38-45‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.5.38-45.口語訳

だからクリスチャンは復讐を神に委ねる。それがクリスチャンの死刑という刑罰に対して取るべき態度である。

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