先日私が好きなGLAYのライブDVDを見てたら、MCの時にTERUさんが「みんなの中にある愛の種に、僕たちの音楽という水を注いで、愛の花を咲かせてほしい」と言っていた。聖書とは無関係な話だが、GLAYというバンドのすばらしさを感じる言葉であると共に、クリスチャンが正しい事を行う原理に似ていると感じた。
クリスチャンもイエス様を信じた時に、自分の中に、霊という神様の前に正しい事を行いたいと願うもう一人の自分が生まれる。この霊に聖書の言葉という水を灌ぐことにより、霊は強くなる。それは、正ことをしたいという願いが強固なものになることを意味する。その願いが強くなった結果として、外に現れてくる振る舞いが変わる。霊が生まれていないときにできなかった正しいことができるようになる。それがクリスチャンが正しいことを行う原理である。
残念ながら、私の周りにいるクリスチャンの中には、この原理をあまり良く理解していないように感じる人がいある。その人たちは、第三者的に観察すると正しいことを行うことが苦痛でしかないように感じる。もちろん、人の生まれながらの性質は罪だから、正しいこと行おうとするとき自分の中に苦痛があることは否定しない。しかし、霊によって喜んで自ら進んで正しいことをしたいと願いながらそれをする以上、そこに喜びがある。罪の性質による苦痛以上の喜びがあるのである。
正しいことを行うことが苦痛でしかないならば、その行いはクリスチャンとして相応しい振る舞いではない。もっと自分の中にある霊に目を向けるべきである。クリスチャンであるならば、必ず神様の前に正しい事を行いたいというもう一人の自分がいる。その自分が外側に現れるまで強くなるように信仰の鍛錬が必要だる。その鍛錬とは聖書の言葉を読むことだ。霊という種に聖書の言葉という水を注ぐことだ。その先には正しい行いという花が咲く。その花を咲かせることは喜びだ。決して苦痛ではない。
これを読んでいるクリスチャンの中に正しい行いが苦痛でしかない人がいるならば、もう一度自分の心を見つめ直してほしい。心の中には神様の正しさを求める心があるはずだ。それを見つけたら、それを強くする努力をして欲しい。それができるならば、これから後のクリスチャン生活は根本的に変わるはずだ。