今晩は。rieruです。
人は誰しも死への恐怖と向き合う生き物である。死が怖くないという人は極めて例外できない存在である。なぜ死が怖いのかというと死の先が分からないからである。時折り有名人が死ぬと「天国で〜しているのでしょう」的なコメントを耳にするが、それとて、その人が天国にいると確信して言っているようには見えない事が多い。少なくとも日本に置ける死というのはそういう存在である。だから人は死を恐れるわけだが、それを恐れたままでは生きて行けないのでその事を考えないようにする。そこには「分からないから気にしない事にしよう」というある種の自己暗示が存在する。
しかし、コロナウイルスの蔓延によりその暗示が一部解けてしまった。コロナウイルスは良くも悪くも「死」というものを可視化する作用を日本にもたらした。その影響はすざまじく、日本に置いては死者が出ていない段階から日本の空気を支配した。死の解決なく、死というものに直面したらその恐怖は半端ではない。それはおそらく、数字の面からコロナには致命的な病でないと思っている人も同様である。例えば感染したら半分死ぬというレベル感染症が蔓延すれば、コロナに敏感でない人の大部分も死を恐れるだろう。
死の問題というのは本当に大きい。しかし、それ向き合わず、臭いものにフタをして生きている人は多い。少なくとも日本ではそれが事実である。しかし、rieruはそうであるべきではないと思っている。なぜなら、聖書の中にその解決を見出したからだ。聖書には下記のように記されている。
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。 死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。 死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」
コリント人への第一の手紙 15:51-57 口語訳
https://www.bible.com/1820/1co.15.51-57.口語訳
これの所に置いて聖書が言いたい事は、キリストを信じで神の前に義とされた人は一度死ぬが、キリストによって蘇るという事である。クリスチャンは死んで終わりではない。死んだ後時が来たならばキリストによって蘇らされ、以後永遠に生き続ける。それは死への勝利であり、完全な死の問題の解決である。rieruはこの死の問題の解決を神の賜物として受けた確信がある。だから死の問題を恐れることはない。
聖書の語る福音と真剣に向き合い、キリストを信じる者は誰でも死の問題を解決できる。だから死の問題から逃げないで欲しい。聖書の語る福音にその解決の道が記されている。その道について詳しく書きたいが、だいぶ長くなったので、明日以降書きたいと思う。
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