聖書の語る福音を信じる根拠

今晩は。rieruです。

今日は、聖書の語る福音を信じる根拠について語りたい。まずは、下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭20:27‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.20.27.口語訳

この言葉は時に誤解されているとrieruは考えている。これは復活したキリストに出会った弟子がトマスという弟子に「キリストに会った」と証言したのに、トマスが「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。」(ヨハネによる福音書‬ ‭20:25‬ ‭口語訳https://www.bible.com/1820/jhn.20.25.口語訳)と言ったことに対するキリストの叱責の言葉である。この事を根拠に聖書は「信じる事を求めている。とにかく信じる事が大事だ」と勧められる事がある。そしてこれは、時に1人歩きして「根拠なく」福音を信じるという意味を持つことすらある。

しかし、この場面でトマスに求められた事は闇雲に根気なくとにかく信じるというような事ではない。ここでトマスに求められた事は「復活したキリストに直前会った証人の証言を信じる」という事である。一度死んだのに復活したキリストに会った弟子の証言にはその感動故に必ず説得力があるはずである。なぜなら、人の常識であり得ない事が目の前に起きてそれを証言するなら、そこには復活の言葉とは違う力があるのが当然だからである。その力ある証言を受け入れるという事がトマスに求められた信仰である。これは決して闇雲に信じるという事を意味しない。そして、この事は現代におけるキリストを信じる信仰にも同じ事が当てはまる。では、キリストを信じる信仰の根拠は何か。先に救われたクリスチャンの証言である。パウロは聖書の中で下記のように語っている。

「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによった」
‭‭テサロニケ人への第一の手紙‬ ‭1:5‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1th.1.5.口語訳

ここで言うわたしたちとはパウロたちの事である。ここでパウロはその伝道が「力と聖霊と強い確信とによ」るものだと宣言した。力とは神の力である。聖霊とは神の霊である。神の力と神の霊と確信。これがクリスチャンの伝道(証言)の中に含まれている。ここに特別な力が発生する。その力が溢れる証言によってキリストを信じる。これがキリストを信じる信仰であり、これだけが人を永遠の罪の裁きから救うのである。

ところで、周りにキリストについての証言するクリスチャンがいない場合はどうしたら良いか。その答えは聖書である。聖書そのものがキリストについて証言している。聖書の別の書には下記のように書かれている。

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
‭‭テモテへの第二の手紙‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/2ti.3.16.口語訳

聖書は神の霊感による書物であり、神の力がそこに働いている。その聖書か神の力によってキリストについて証言している。例え、クリスチャンの証言自体が身近に存在しないとしても聖書の証言は確かに存在する。その証言な持つ力こそ信仰の根拠である。

キリストを信じる信仰とはむやみやたらとなんの根拠もなく信じる事ではない。神の力を帯びた証言を根拠としてキリストを受け入れる事である。

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