Categories: 聖書の教え

クリスチャンの善悪の一つの基準

今晩は。rieruです。

今日はクリスチャンになった後の善悪の判断基準について。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭5:4‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.5.4.口語訳

これは初期の教会の時代にクリスチャンが皆の持ち物を共有にしていた時に、ある夫婦が持ち物のを売り払った代金の一部を教会に寄付したにもかかわらず「全部を寄付した」と偽りを言ったという出来事が起こった際に使徒ペテロが語った言葉である。ここで注目すべきは「、あなたの自由になったはず」という部分である。これは皆が持ち物を共有にしている中でも一部を寄付するという自由があったという事だ。言い換えると財産の全部を寄付しなかった事自体は責められてはいない。

クリスチャンの世界でも(特に日本では)同調圧力というものが存在する。時に自由の範囲なのに「同じである事」を求めることがある。しかし、それは本当にあるべき姿なのかを確認する必要がある。モチロン例えば、神の前に罪である事は自由ではない。しかし、聖書の教えは個々のクリスチャンの事情にも配慮する事が原則である。特に金銭を捧げるという事においては特にその原則はハッキリしている。下記の記事においても他の教会のクリスチャンを助けるために「力に応じて」皆が物理的な物を捧げた事が記されている。

「そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。」
‭‭使徒行伝‬ ‭11:29‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.11.29.口語訳

では、なぜ冒頭の夫婦は糾弾されたのか。それは「神を欺いた」事による。クリスチャンは弱さによってできないことがあるとしてもそれは自由の範囲にある限り裁きの対象にはならない。しかし、自由の範囲でも「偽り」は悪であり、裁かれる。お互いに自由の範囲において許しあい、正直に生きるというのがクリスチャンの善悪の一つの基準である。

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