キリストの行った奇跡についての捉えた方
今晩は。rieruです。
聖書に対する見解の一つとして、「キリストの奇跡(例えば生まれつきの病気を即座に癒したとか嵐を一言葉で癒した事など。)の記載が非現実的とか非科学的」というものがある。それは一面の真理だと思うが、今日はそれについてrieruの考えたを述べたい。
まず、非現実的と非科学的というのは「この世を創造した創造主なる神が存在しない」という前提にたった時に正しい話である。創造主なる神がいるならば、創造主が被造物に与えた法則(これを見つけるのが科学の営みである。)を変えるという事はむしろ必然である。例えばレゴブロックで作った家のデザインを自由に変えるのは創作者が当然できることだ。同じように創造主なる神が「自然」の法則を変える事(すなわち奇跡)は当然できるべきことなのである。
その上で聖書はキリストの奇跡について下記のように述べている。
「しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。」
ヨハネによる福音書 5:36 口語訳
https://www.bible.com/1820/jhn.5.36.口語訳
この所でいう「わたし」とはキリストであり、父とは「創造主なる神」である。また、「わざ」とは「奇跡」のことである。そして言わんとするところは「キリストの奇跡とは神がキリストを遣わしたという証拠のために与えたわざである。」ということである。神はキリストを「人として」遣わす必要があった。なぜならば、「その死によって」すべての人の罪の償いをするためだ。キリストは永遠の存在であり人としてこの世に来なければ「死」という概念もない。それでは人の罪の償いが不可能なのでキリストが人の体を持ってこの世に来る必要があった。
しかし、キリストが人の肉体を持ってこの世に来た時、外見上は普通の人となんら変わることがなかった。これでは人がキリストを「神が遣わされた救い主」と判別することができない。そこで神はキリストに奇跡を行わせることによって、人がキリストについて「単なる人ではなく神から遣わされたもの」と認識することができる。それがキリストが奇跡を行った理由である。
奇跡についての受け止めは聖書に初めて触れたときには難しい問題だと思うが、頭ごなしに否定せず上記のような理由があるという事を踏まえて考えて頂ければ幸いである。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) April 30, 2021