無実の罪でキリストを殺めようとするユダヤ人の中に見る人の罪の性質

今日は。rieruです。

人は感情に任せて理不尽な事を行ったりやったりするものである。聖書には下記のように記されている。

「それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭18:28‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.18.28.口語訳

ここでいう「人々」とはキリストを死刑にするために時の権力に訴え出ている人達である。彼等は無実の罪のキリストを殺そうとするという大罪をおかしているにも関わらず「けがれ」を受けたくないと考えていた。理由は神の命令である「過越の食事ができる」ためであった。過越の食事について命令した神は「殺してはならない」とも命じられているにも関わらず。そしてそして彼等この後下記のように発言する。

「すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭19:15‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.19.15.口語訳

これは紛うことなき「殺人の指示」である。キリストの裁判の席につく事で「けがれる」事を拒否したのに、人を殺す事には無頓着という極めて非合理的な行動を彼等は取ったのである。そして彼等は更に下記のような行動をとる。

「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭19:31‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.19.31.口語訳

ここでいう安息日と過越の食事はほぼ同義のものと考えて頂いて良い。どちらも神の命令として当時のユダヤ人が儀式として守っていたものである。神の命令である過越や安息日を尊ぶ心はあるのに、その神が忌み嫌う人を殺すことには無頓着。これほど滑稽な行動というのはなかなかない。

しかし、これは人の罪の性質として理解した時見方は変わってくる。これほどあからさまではないにしても、自らの感情ゆえに理不尽な仕打ちを他人にしたり、しようと考えた事は誰しもあるのではないだろうか。少なくともrieruには思い当たる事はある。人は自らの感情的になる筋を通すとか、何が正しい事なのかという事はどうでも良くなる。そういう事実を素直に見つめる時、人は自らの内に善が宿っていない事に気付かされる。パウロは自らの罪について下記のように語っているが、まさにこの通りである。

「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:18‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.18.口語訳

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