聖書を読む一つの観点
今日は。rieruです。
聖書には下記のように、キリストが十字架で死んだ直後使徒ペテロとヨハネが、ユダヤ人指導者から「キリストについて語る事を辞めるよう」命令された時にそれを毅然と断った事が出てくる。
「そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。」
使徒行伝 4:18-20 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.4.18-20.口語訳
当時の弟子たちは常に迫害の対象となっており、時に投獄されたり、仲間が殺害されたりという事が度々あった。しかし、彼らはキリストについて語る事を辞めなかった。その結果が世界中で聖書が読まれるようになる事につながった。
これをどう見るかという事についてはいろんな見解があるだろう。例えば「彼らは宗教にハマっていた」とか「聖書が自分たちの仲間を美化して書いているだけだ」とか考える人もいると想像する。
rieru的には「偽物に命をかけることはできない」と思う。例えば、キリストの復活が嘘だったら、それを伝える事に命をかける事はできない。そう素直に思う。いくら宗教にハマったとか言っても流石に命をかけるまでというのは相当まれである。しかもそれを多くの人が長年それを続けるということは難しい。なによりそういう胡散臭い集団だったらクリスチャンが世界中に増えるという現象は起こるとは考えにくい。
だから、聖書は真実なんだと説得しようというつもりはない。聖書は信じるもので理屈で納得するものではない。ただし、上記のように「人の常識では考えにくことが実際に起こった」という事実については聖書の真実性について考えるきっかけにはなると思っている。上記のような事例はその一つである。聖書の真実性に疑問がある人は是非そういう観点で聖書を読んでみてほしい。それが聖書を理解するうえで一つのきっかけになるかもしれないからだ。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) June 17, 2021