人の目よりも厳しい目によって評価される事。

今日は。rieruです。

今日はクリスチャンの生きる指針について語りたい。その事について聖書は下記のように語っている。

「また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」
‭‭使徒行伝‬ ‭24:15-16‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/act.24.15-16.口語訳

これはパウロが自らのクリスチャン人生について語っている所である。まず、「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいている」とは人死んで終わりではないという意味である。全ての人は死後によみがえる。そして、その先には神の前に立ち、神の審判を受けるという事もこの言葉の意味には含まれている。その審判に置いて、神の賞賛を受けるためにパウロは「神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めてい」るである。

つまり、パウロの関心事は自らの行動が「神に評価されるか」という事だった。神の評価は人の評価とは違う。例えば、人と人との関係であれば、心の中で何を思おうが、表面さえ取り繕えば問題はない。しかし、神は人の心にあるものさえも評価される。仕事で能力が足りず、職業人としては評価されない人生を送ったとしても、その人は神の前に誠実な人生を送ったならば評価をされる。この世に置いて人が羨むような何かを持っていなくても神の前に正しい人は神に高く評価される。

この神の評価は究極的に平等である。だから、クリスチャンは、人に評価されない人生を送るとしてもそこに拘らない。神に評価されれば良いからだ。しかし、これは同時に厳しいことでもある。なぜなら、神の前に隠し事ができないからだ。人に隠れた言動も神は全て知っている。それは人に取って厳しくもある。これは誤魔化しが効かない。人の前では多少の事は隠してなかったことにできる。だが、神の前にはそれは一切できない。だから何かをやらかした時、クリスチャンは心に大きな咎めを感じる。これは非常に厳しい。クリスチャンでありながら罪を犯すということの責めは本当に辛い。

クリスチャンになると人の目を気にする必要は無くなる。その意味では解放される。しかし、同時に、もっと厳しい神の目にによって評価される事を知る。その厳しさに対する責任も日々感じる。それがクリスチャン人生である。

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