ヤコブ書の手紙における行いとは愛である。

聖書にヤコブの手紙という書物がある。この書物は大変厳しい事が書いてある。要約すると「行いのない信仰は死んだものである。」という教えがなされている。この意味は信仰に入って救われて永遠のいのちの与えられた事を喜んで後は何をしてもいいと言うことにはならないという事である。神の恵みによって救われたのにそのことに感謝して神への献身を示さないなら、その者の信仰は死んだようなものだとヤコブの手紙は指摘している。

この書は私にとって耳の痛い書である。しかし、最近少しだけ見方が変わった。昔はヤコブの手紙における「行い」は私にとって何かしなければならないとか何かをしてはならないという無味乾燥な戒めでしかなかった。勿論最終的には何かをなす事だし、何かをなさないことだという事は変わらない。ヤコブの手紙にもなすべきことやなしてはいけない事が書いてある。

しかし、ヤコブの手紙はその動機は愛であることも教えている。

「しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。」
‭‭ヤコブの手紙‬ ‭2:8‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/jas.2.8.口語訳

ヤコブへの手紙の二書に行いの例として差別をしてはいけないという事を教えている。そして、その本質は上記のように愛であることを示している。周りにいるひとを隣人として愛するから差別をしないということだ。聖書の律法という法律は人に関する限り隣人を愛するという事を元にして作られている。隣人を愛するから盗んではいけない。隣人を愛するから不貞を働いてはいけない。隣人愛するから殺してはいけない。という原理なのである。

ヤコブへの手紙における行いとは律法を守ることであり、律法を守る事は隣人を愛することだ。だからヤコブへの手紙は人を愛しなさいという意味なのである。何かをなす動機として愛がある。そう考えるとだいぶヤコブへの手紙の印象が変わる。何かしなければならないと考えるより、人を愛すべきだという教えてとして考えた時だいぶ私は楽になった。

勿論隣人がどんな人でも愛さなければならないから容易い事ではない。しかし、何かを禁止されるあるいは強制的に何かをなさなくてはならないと心を縛る寄りは人を愛する努力をする方が心に優しい。

私は愛が薄い人間ってなので、その愛を増して下さいと神様に祈って助けて頂きヤコブへの手紙の教えを少しでも実践したいと思う。