クリスチャンには完全を目指す事を目指す事を諦めてはいけない。

今日は。rieruです。

前にも書いた事があると思うが、クリスチャンは基本的にこの世生きている間に完璧に神のルールに従う事は難しい。それはパウロが下記に語っている通り、罪の性質を残したままでこの世を生きるからである。

「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:23-25‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/rom.7.23-25.口語訳

しかし、完璧を真剣に追求する必要はある。それは例えば、パウロが別のところで下記のように語っている事から明らかである。

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、」
‭‭ピリピ人への手紙‬ ‭3:12-13‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/php.3.12-13.口語訳

クリスチャンに取って不完全である事は大きな心の重荷である。その心を癒やしてくれるのが冒頭の選手の言葉であり、神とキリストにただ感謝して生きる。それは信仰生活の一側面としては真理である。しかし、それが「どうせ出来ないのだから、どうでも良い」という事に変わる事は相応しくない。不完全な自分を受け入れてくれる神への感謝と、不完全な自分を変える努力は別物である。それどころか、だからこそより一層自らを変える努力を怠ってはならないのである。

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