クリスチャンが愛と義のバランスが難しいと感じるのなら、聖書の理解が根本的に間違っている。

今日は。rieruです。

時々クリスチャンの信仰生活について愛と義のバランスが難しいという話を聞く事があるのだが、これは聖書的には完全な誤りである。愛と義は聖書の中で完全に両立している。むしろ相互に増強する関係であり、一方を取ったら他方が疎かになるというシロモノではない。例えば、神の前に置ける義とは下記のように神を愛する事と隣人を愛する事である。

「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭22:37-40‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.22.37-40.口語訳

髪の前に置ける本当の義の追求は愛に帰結すると。愛が欠けたらそこには義もないのである。仮に他のクリスチャンに対して過ちを見つけて愛のないムチを加える事は神の義に反する。

逆に隣人を愛するなら、隣人の不義を黙って見逃す事もあり得ない。なぜなら隣人への愛は隣人が不義を悔い改める事を願うからだ。クリスチャンは愛する人が神の前に不義である事を望まない。例えばパウロがコリントの教会へ叱責の手紙を書いた事について下記のように語っているが、これが隣人への愛である。(ただし、これは隣人がクリスチャンであるという前提である。クリスチャンでない人にはキリストイエスを信じる信仰を勧めるのが先なので、必ずしも直ぐに不義をただす事にはならない。)

「わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。 しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。 その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。」
‭‭コリント人への第二の手紙‬ ‭2:4-7‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/2co.2.4-7.口語訳

そうであるならば、愛を追加したかった義が疎かになるという事はあり得ない。クリスチャンの信仰選手に置いて愛と義のバランスが云々という話が出てきたらそれは根本的に聖書の理解が間違っている。

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