多くの人の感覚とは違う「神の前における罪」

今日は。rieruです。

時々「自分らしい生きたい」というフレーズを耳にする事があるが、「自分らしく」とは具体的にどういう意味なのだろうか。例えば、「自分がこうしたい」という意思があってもできない時によく使われるが、なんらの事情でできない事も含めて「自分」なのであってそれが、「自分らしくない」というはどうもしっかりこない。結局のところ「自分のやりたい事ができる」というのが(自分らしく」の本質であると思う。

ただし、それを「自分のやりたい事をやる」と表現しないで「自分らしく」と言う時は、「本来許されるべき事が、自分以外の社会的な要因でできない」時が多いようにおもう。「自分のやりたい事をやる(できる)」はどこかワガママな印象がある。だから、「本来社会から許容範囲されるべき事柄を実現すること」を「自分らしく生きる」と表現しているのではないだろうか。

しかし、この意味であっても自分らしく生きる事は多くの場合神の前に罪である。なぜなら、神の法律のはじめは「あなたの神である主を愛せよ」だからである。この基準からすれば、人が神よりも自分の事を優先する時にそれは罪である。自分らしく、自分のやりたい事をする結果、それが神よりも優先するならば、神の法律に反していて罪である。唯一の例外は「自分のやりたいこと」が「神の喜ぶこと」であった時である。

預言者イザヤは人の罪の本質について下記のように書き記した。

「われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、 彼の上におかれた。」
‭‭イザヤ書‬ ‭53:6‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/isa.53.6.口語訳

まさにここでイザヤが言うように人は「神の元から離れて」「おのおの自分の道」を行く事である。これはまさに「自分らしく」「自分のやりたい事をする」道である。この世の法律に触れなければなにをしても良いというの人と人の間では通用するが、人の創造者である神の前には罪とされるのである。これは多くの人には馴染みのない概念と思うが、是非多くの人に知って欲しい事である。

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