神は〇〇であるべきという思い込みをすてること。

今晩はrieruです。

聖書を全く知らない人が初めて聖書を読む「聖書の語る神は存在するのか?」という疑問が生じる事がある。そして、時にそれは「神がいるならなぜこんな事が起こるのか?」という疑問につながる。確かに、全知全能の神が存在するのになぜこの世にこれだけ不条理な事が起こるのかという疑問はもっともである。全ての事が可能な神がいるなら、問題が生じたらそれを力をもって解決してくれても良さそうである。

しかしながら、それは人が「神に対して自らの考えを押し付けている」という側面もある。「全知全能の神がいるなら〇〇をすべき」と人が考えたとしても、それが起こらないから「神が存在しない」という事にはならない。「人が思い描くような神が存在しない」としても、それは「神がいない」という事ではない。人には理解できない事を行う神だとしても、それが存在するという事はあり得る。

人の側が「神とは〇〇であるべき」と決める権限はない。むしろ神が「人とは〇〇であるべき」と決めるのである。少なくとも聖書の中で神とは「人を創った支配者」であり、被造物である人に命令する権利を持つ。仮に聖書の語る神がいないとしても(rieruはそうは思わないが)この世を創った創造者がいるとするならば、被造物に対して絶対の権限を持つという事は必然である。

そうであるならば「自らの望む神」を探すという発想はやめた方が良い。何故なら、自らの望む形でない神(又は創造者)が存在する時にそれを受け入れる事ができないからだ。残念な事にクリスチャンの中にもこういう発想の方が存在する。少なくともクリスチャンと自称するから「自らの望む神の在り方」を聖書の神に押し付ける事は「絶対にやってはいけない事」である。それをすると神の権威を認めないものだから、聖書の解釈まで歪めてしまう。

そうならないためにはまず「神とは〇〇であるべき」という思い込みを捨てる事が必要である。その上で、聖書の語る神が存在するのかしないのか丁寧に自ら考える事である。その結果聖書の語る神が実在する事を感じる事ができたなら、「自らの望む神」ではなく「現実に存在する神」と正面を向いて対峙して「その神の前にどう振る舞うべきか」という事を知る事ができる。これは「自らの望む神」が存在する限り正しく理解する事ができない事柄である。

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