放蕩息子息子の兄の振る舞いは人の神に対する罪の原点

今晩は。rieruです。

「兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭15‬:‭29‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/luk.15.29.口語訳

昨日に引き続き放蕩息子の例えについて。上記は放蕩息子の兄が放蕩息子が父に迎え入れた時に発した言葉である。これが事実であれば確かに放蕩息子の父は兄息子に不当な扱いをした事になるかもしれないが、実はこの話の冒頭には下記のように記されている。

「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭15‬:‭12‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/luk.15.12.口語訳

ここにハッキリと「はその身代をふたりに分けてやった。」と書かれている。兄息子も放蕩息子同様大きな財産を父から与えられていた。しかし、それを認識していない。そんな事は普通はあり得ない話しなのだが、神と人との関係ではそれが至るところで起こっている。この世は神の支配するところなので、この世あるものは全て神の支配下にあり、人はそれを使う事を神に許されているに過ぎない。しかし、それが神の許しなしに使う事ができないものである事を無視している人が多い。生きるために必要なたくさんのものを与えられているにも関わらず、与えられた事を認識すらしていていない。そんな人の姿を聖書はこの兄息子の振る舞いを通じて教えようとしている。そしてこの兄息子の振る舞いこそ、「この世の支配者としての神を認めない」という人の神に対する罪の原点なのである。

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