放蕩息子の父から学ぶクリスチャンホーム親が神の前になすべきこと。

今晩は。rieruです。

「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭15‬:‭20‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/luk.15.20.口語訳

これはいわゆる「放蕩息子のたとえ」に出てくる放蕩息子の父の放蕩して自身の財産を湯水のごとく浪費した息子への対応である。この対応は一般的に考えると少し不思議である。父は放蕩息子が帰ってくると遠にいるのに息子を見つけて迎えにでるのである。これは父がずっと家の門のところで息子の帰還を待っていることが前提である。しかし、そこまで真剣に待っているなら「探しに出たらどうか?」という疑問が湧く人もいるのではないだろうか。

しかし、この父の姿こそ「罪人の帰還を待ちわびる神」の姿を例えとして描写するのにふさわしい。なぜなら、聖書に記される神は人の「自主的な帰還」を望んでいるからだ。罪人の悔い改めは自主的なものである必要がある。少なくとも神が喜ぶ「悔い改め」は自主性が必要である。だからこそ、この例えで父は放蕩息子の自主的な帰還を首を長くして待っていたのである。決して父は子を探しに出て強制的に自分の子供を家に強制的に引き戻すことはしない。

これは、大変大切な原理である。時に人は子供に信仰を強制することがあるが、それは神の前にふさわしい事ではない。子供が自主的に悔い改めて福音を信じるのを待つのが親の本来の務めである。親のすべきことは強制的に子供を神の前に引きずり出すのではなく、聖書の語る言葉を子供に伝えて待つという事がクリスチャンホームの親のなすべき事である。

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