クリスチャンはどんな場面でもその経験値に相応しいものを身につける必要がある。

今日は。rieruです。

その道の経験はあるのに「なぜこんな事もできないのだろうか。」という疑問はクリスチャンの世界以外でも時々起こる浮かび上がるものである。聖書では長い時間が与えられているにも関わらず、その人が知るべき事を知っていないクリスチャン(特に指導的立場にあるクリスチャン)について下記のように警告している。

「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭5‬:‭12‬-‭14‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/heb.5.12-14.口語訳

クリスチャン同士の世界を離れて、この世で生活していても、安定的な地位を与えられると人はサボりだす。それは確かな事である。それは人間の弱さであり、クリスチャンでもそのワナにかかる事はある。しかし、クリスチャンはそうであってはならない。神のために奉仕する事に終わりはなく、常に成長する必要がある。

そして、それはクリスチャンが世の中で社会的責任を果たすという事についても同様である。クリスチャンが自らの経験値に相応の知識や技術を身につける事を怠り、社会において他人に迷惑をかける事は、避ける必要がある。なぜなら、自らの怠慢で他人に迷惑をかけるとしたらそれは隣人を愛していないからだ。隣人を愛するならば自らの怠慢で他人に迷惑をかけてはいけない。それができていない人が、「神を愛して」神に奉仕するなどという事は成り立たない。なぜなら、神を愛するとは神の律法を守る事であり、神の律法とは隣人を愛する事だからである。

クリスチャンはどんな場面でもその経験値に相応しいものを身につける必要がある。

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