天のふるさとを意識して生きること。

今日は。rieruです。

先日、ALSのため闘病している義弟のお見舞いに行ってきた。だいぶ症状も進み話をすることもままならい状態になっていたが、穏やかな表情をしていた。その時思い起こされたのが下記の聖書の言葉だった。

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

へブル人への手紙11章13~16節

これは、死の先にある天の「ふるさと」に望みを持ちながら死んでいった人たちの事がかかれている。彼らは死後天のふるさとで神と会うことに望みをおいて死んでいった。それゆえこの世を去る時にも希望があった。キリストを信じて救われたクリスチャンも同じ望みを持って死を迎える。義弟はまさにそれを体現していた。

彼の姿を見て死の先にある天のふるさとを望み見て生きる事のできることは本当に大きな事だと改めて思い起こさせられた。一方で、天のふるさとにおいて神と会う時に恥ずかしくない人生を生きたいと戒められもした。何事もゴールは何かを意識することは大事でる。クリスチャンの人生のゴールは天のふるさとで神と会う時である。そして、その時に神から「忠実なしもべ」と評価されるか否かはクリスチャンに取って最も大切な事の内の一つである。

日常の様々な事に気を取られるとつい「ゴール」を見失うことがあると言わなくてはいけないが、それではいけないと今回改めて思い知ら競れた。

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