聖書の罪に対する指摘によって「心を刺されること」と「神の愛への理解」は表裏一体である。

今晩は。rieruです。

「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。」
‭‭使徒行伝‬ ‭2‬:‭37‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/act.2.37.口語訳

これはキリストの弟子による伝道の様子について聖書が語っている個所の一節だが、ここに注目して頂きたい言葉がある。それは「強く心を刺され」という部分である。この部分は直接には当時のユダヤ人がキリストを無実の罪で死刑にした事について語っている。当時のユダヤ人たちはキリストの弟子によって「キリストを冤罪で死刑にした」という罪に関して指摘を受けた時「強く心を刺され」た。

何かの罪に関して指摘を受けて「心を刺される」という経験はできれば避けたいものである。しかし聖書の語る福音を真正面から受け取る時人は「心を刺される」。なぜかと言えば、聖書の語る福音は人の罪に対する厳しい指摘が含有されているものだからである。そのことは先日アップした下記の福音でヨシヤ氏が語っているところである。

ただし、福音(=良いニュース)が厳しい罪の指摘のみであるとするとそれは福音ではない。聖書の語る福音はその罪の指摘の上で「キリストの十字架による罪の償い」という「神の愛」が提示している。この神の愛は「自らの神の前に犯した罪の重さに対する自覚」なくして理解することができない。理解できなければそれを受け入れる(信じる)ということも成立しない。それゆえ、聖書の語る福音の真価を味わうためには聖書による厳しい罪の糾弾によって「心を刺される」必要がある。

時に、福音に触れる時に罪の指摘によって不快な思いをされるかもしれない。それで聖書を避けるという人もいるかもしれない。しかし、その不快な思いをしたときに一歩立ち止まってほしい。それは自らに対する神の愛を理解するために不可欠な要素であるということを。福音は罪を指摘して人を辱めるためにあるのではない。むしろその救済のためにある。ぜひその事を念頭に福音にふれてみてほしい。

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