悲しみの家にはいるのは、 宴会の家にはいるのにまさる。

今晩は。rieruです。

先日下記の記事で書いたクリスチャンの葬儀に出席した。

葬儀に出席して思い出されたのが下記の聖書の言葉である。

「悲しみの家にはいるのは、 宴会の家にはいるのにまさる。 死はすべての人の終りだからである。 生きている者は、これを心にとめる。」
‭‭伝道の書‬ ‭7‬:‭2‬ 口語訳‬
https://bible.com/bible/1820/ecc.7.2.口語訳

ここでは悲しみの家という少しオブラートに包まれた表現がされているが、これは文脈から読み取れば人の死によって悲しみに包まれた家という意味である。そこに入るのは宴会の家に入るに勝る。その理由は生きている人が人の終わりについて心にとめるからだと聖書は語っている。この言葉は本当に真実である。私は肉体の死を間近に控えてなお希望を失わず安らかな気持ちで一歩一歩神の元へ向かっていった故人の生き様を見てきた。葬儀に出てその事を心底思い起こした。

彼の人生の終わりはは本当に輝いていた。それは彼に神の元に帰る事とその素晴らしさに確信があったからである。先が見えないという感覚は彼の中には全くなく不安に押しつぶされる事はなかった。この世の苦しみから解放される時が刻一刻と近づいている事からくる平安が彼の中には満ちていた。その姿には心から励ましを受けた。勿論彼との別れは悲しい。彼と言葉を交わして交わる事ができなくなる事への喪失感もある。しかし、それ以上に信仰の道を真っ直ぐに歩み続けた彼の生き様は同じ信仰者として大きな模範であった。その模範は別れの悲しみを凌駕する励ましである。

人はいつか終わりがくる。終わりが彼のように輝いたものであるために今為すべき事を全力で頑張りたい。

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