どちらでもいい問題とそうでない問題を区別しなければならない。

「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭14:9-10‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/rom.14.9-10.口語訳

この言葉だけを捉えるとクリスチャンは他のクリスチャンの信仰に意見を述べてはならないという結論になりそうである。しかし、それは違う。この言葉が書かれているローマ人への手紙14章は「クリスチャンの裁量に任されている範囲」の事について語っている。

具体的には何を食べるかという問題と特定の日を大事にするという問題である。どちらも新約聖書には具体的な神の命令がないので、各クリスチャンが信仰に基づき判断をする。肉を食べない事で神に対する忠誠を現したいと考えるならそれでも良い。日曜日は主の日だから外食で自分を喜ばせる事は慎みたい。そう言った判断は各人の自由の領域なのでそれぞれが神のためにしている限り裁いてはいけない。それが冒頭の言葉の意味である。

それに対して聖書に具体的命令がある場合はそうはいかない。ガラテヤ人への手紙では使徒パウロが使徒ペテロの福音に関する間違いを公に非難して訂正した事が記されている。神の命令と違うことを行えばそれは周りのクリスチャンから咎められる。これは正常なクリスチャンの関係だ。仮に神の命令に反することを周りクリスチャンが放置するならそちらの方が問題である。

聖書は隣人を愛する事を教えているが、神の命令に反する事をしているクリスチャンを放置するのは最も愛に欠ける行為である。何故ならその間違いを放置すればいずれ、間違いを犯している人がその責任を神様から強く問われることになるからだ。

クリスチャンはどちらでも良い問題と一つの正解しかない問題を区別しなくてはならない。