神の命令を義務感でしか捉えられない状況はクリスチャンとして異常である。

今晩は、rieruです。

残念な事にクリスチャンの中にも神の命令についてある種の拒否反応を示す方がいる。聖書は神の命令で溢れている。言葉尻を捉えると聖書の神の命令に従って生きる事は窮屈に思える。神の命令が窮屈だと思う時、人は概ねふた通りの反応を示す。一つは「そんな固い事はいいから」と聖書の言葉のうち自分の都合の良い部分だけを享受しようとする反応である。もう一つは「嫌々従う事」である。しかし、聖書を紐解けば、そのどちらも間違いである。パウロは聖書の中で以下のように述べている。

「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:22‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.22.口語訳

ここで言う神の律法とは神の命令の事である。神の命令を喜ぶ。それがクリスチャンの本来のあり方だ。神の命令に従うとは神の命令を喜ぶ結果であって嫌々従うものでも拒否するものでもない。神の命令を意図的に拒否するのも、嫌々従うのも神の命令を喜ぶ心からは出てこない。

こういう事を言うと「神の命令を喜ぶ心はパウロだから持てた」と反論されるかもしれない。しかし、この言葉の文脈を考えると神の命令を喜ぶ心はクリスチャンとして最低限の話だと分かる。

実は上記の言葉は、神の命令を喜ぶけれどそれを実行する事がないパウロ自身の葛藤が書かれている文脈で出てくる。その証拠に上記の言葉に下記の言葉続く。

「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:23‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.23.口語訳

もう少し俯瞰の目で前後の文脈を調べるとこの言葉が書かれているローマ人への手紙の7章の前の6章はクリスチャンならば神の命令を実行するのが当たり前だという事が書かれている。7章はその6章を受けるかたちで、パウロが「6章で書かれたクリスチャンなすべき当然の事すらできない自分がいる」と嘆いている。しかし、パウロは救いを受けても罪を犯してしまう、惨めな自分でもイエス・キリストの救いの効力は変わらない、それこそ聖書の語る救いの素晴らしさだとと8章で語っているのである。

これを読めば、7章の神の命令を喜ぶけれど行えないという自体が極めて異常な状況である事がわかる。そうだとしたら、神の命令を喜ぶ心がない、或いはそれが外に見えないという事態はそれを超える異常事態である。

この事はパウロが神の命令を喜ぶ内なる人がクリスチャンの中に形成される為に何が必要かという事を聖書の中に書き記していない事からもわかる。少なくともパウロから「神の命令を喜ぶようになるためには〇〇が必要」教えられることはなかった。仮にも彼の周りに、神の命令を喜ぶ心がないか、それが見えないクリスチャンが多数いるならば、その事をまず最初に教える筈だ。神の命令を喜ぶ事なしに神の命令を行うというのは苦行であり、神の命令を喜べないとしたらそこから教え始める事が適当である。

その教えがパウロからなされていないならば少なくとも、パウロが生きた時代の事は問題にならず、当然の事だったと考えるのが妥当である。以上の事を考えるとクリスチャンに神の命令を喜ぶ心がない或いは外に見えないという事態が異常である事が分かる。それに対してどう対処すべきかについては明日以降また語って行きたい。