今晩はrieruです。
今日は神の視点で見た罪人の姿について。まずは聖書の下記の記事をお読み頂きたい。
「それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」
マルコによる福音書 5:2-5 口語訳
https://www.bible.com/1820/mrk.5.2-5.口語訳
ここに出てくるけがれた霊につかれた人は神の目から見た罪人の姿を象徴的に現している。まず
この人は墓場に住んでいたが、墓場に住むというのは人として正常な姿ではない。同じように罪を犯す人は通常の人の容では無い。そもそも人は「神にのかたち」として創造された。(詳しくは下記の聖書の言葉を参照されたい。)「神のかたち」に罪は相応しくない。なぜなら、神には罪はないからだ。それ故に、人が罪を犯すというのは人の創造の目的に反して異常な状態である。
「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
創世記 1:26-27 口語訳
https://www.bible.com/1820/gen.1.26-27.口語訳
話を冒頭の汚れた霊につかれた人に戻すと、この人は他人が制御できずに暴れ回っていた。人は自分の罪を制御できない。わかりやすい例はニュースで見かける凶悪犯のケースである。世の中には「なんでそうなるの?」と言いたくなる事件が起こる。それは人が自分の罪人を制御できないから起こる。こんな事を言うと大抵の人は「自分は違う」と言うだろう。しかし、神の目から見ると全ての人が罪を制限できていない。人の目から行動に移さないと罪とは言わない。だが、神の目から見れば心の中で悪い考えを持つことも罪である。物凄く残酷な事を考えて「これは如何」と思い留まる事ぐらい誰にでもある。神の目には残酷な事を考える事自体が罪であり、神はその罪を全てご存知である。だから神の目から見たら全ての人が罪を制御できない人である。
このように、正常でない罪を犯し、それを制御できない人はどうすれば良いのだろうか。上記のけがれた霊につかれた人はキリストによってけがれた霊を追い出してもらって救われた事が上記の記事の後に書かれている。同じように罪を犯してそれを制御できない人もキリストによって救われる。それが聖書の教える罪の唯一の解決方である。
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