神の不思議な助けを待つべき時について。

今日は。rieruです。

今日は、神の計画は人の頭の中で全てを理解する事は難しいという事とクリスチャンは先が見えなくても未来に神の答えがあると信じて待つべき時がある事を語りたい。まずは、下記の聖書学言葉をお読み頂きたい。

「その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。」
‭‭使徒行伝‬ ‭23:11‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/act.23.11.口語訳

これは、使徒パウロがイスラエルの国で獄中にいた時に神からパウロに語られた言葉である。パウロ自身に獄中にあるべき理由はなかったが、ユダヤ人の妬みにより投獄され、いつ出られるか分からない状況だった。しかし神からの言葉「ローマでもあかし(福音伝道のこと)をしなくてはならない。」だった。獄中にいて自由に動けないのにローマで福音伝道をするなど、人の考えでは難しいと言わざる負えない。

しかし、この事は不思議な方法により成就すること。それはパウロがローマ皇帝に上訴し、それが受け入れたてローマに護送され、ローマで今で言う仮保釈のような状態が認められて福音を語るという方法だった。ローマ皇帝に上訴するだけならできたとしても、仮保釈になるか否かはパウロには決定権がない。実に不思議な方法である。更に言うとローマに護送されるまでにも、ユダヤ人の陰謀により殺されそうになったり、護送船が難波して命の危険があったりと人が予想できない困難もあった。しかし、その中でパウロ人の目から見たら奇跡的にローマに到着して、福音を語る事ができた。

神の助けは人の考えの及ばない不思議な方法でやってくる事がある。上記の記事はその典型例である。rieruにも似たような経験はあるし、つい最近もあった。事情があって詳しくは書けないが、仕事上あり得ないと思われた事が現実になりつつあり、それが伝道の機会となりそうなのである。そんな状況だからより一層、パウロに与えられた奇跡的な守りに神の意思を感じるし、今のrieruにも同じことが起こりつつあるのだなと思っている。

だから、クリスチャンは現状に失望しない。いやしてはならない。現状解決方法が見えなくても、神が望む事であるならば、解決があるからだ。その問題が解決する事が神の心にかなうと確信があるならば、クリスチャンはその解決を探しつつ神の助けを待つの必要がある。

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