今晩は。rieruです。
rieruは最近まで、金銭面における心配が尽きない生活を送っていた。昔あるクリスチャンの先輩から「どんなに金銭的な難しい状況だとしても結果的には与えられるものだよ」と言われた事があるが、それを受け入れることができなかった。しかし、それはクリスチャンとしては相応しくない。クリスチャンには下記の通り生活の心配しなくても良いと約束されているからだ。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
マタイによる福音書 6:25-26, 28-33 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.6.25-26,28-33.口語訳
神の国とその義を求める者には生活に必要なものは与えられる。それがキリストの約束である。神の国に入る為にはキリストを自分の救い主として、信じる必要がある。信じると神は人を義であるとみなす。信じて義と認められたクリスチャンは自分の神から「義と認められた者」として、此の地上の生活で義である事を求める。義である状態とは神に喜ばれる生活を送る事である。これはクリスチャンの信仰生活の根本であり、クリスチャンとして正常な姿を求めて生きるものは「神の国とその義を求める者」である。
rieruにとってこれは新しい教えではない。昔から良く知っている教えである。しかし、それを実践することはできていなかった。クリスチャンであると言いながら、キリストの約束を頼って生きることができず、すぐにお金の心配をしていた。
しかし、最近その状態に変化が起こった。曲がりなりにも20年以上クリスチャンとして試行錯誤しながら生きていく中で金銭面でも自分では予期しない神の助けを沢山経験した。その中でこの世の生活の心配は要らないという約束を実感したからだ。先の見えない混迷の時代に先の生活の不安は今でもある。しかし、それを本当の意味でキリストの約束に頼って解決できるようになった。これはrieruにとって大きな事である。
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