人間の世界ではありえないほど大きな神の恵み

‘こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 ‘ ローマ人への手紙 8:1-2 https://www.bible.com/bible/1820/ROM.8.1-2

この聖書の言葉は非常に重い。キリスト・イエスにある者つまりクリスチャンは罪に定められることはないとの宣言である。この言葉だけでは当たり前のこと書いているようであるが、この章の前に何が書かれているかを考えるとこの言葉の重みが理解できる。この前の章で筆者であるパウロは、救われてクリスチャンになっても自分の中に罪を見出すと書いている。

‘もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 ‘ ローマ人への手紙 7:15-19 https://www.bible.com/bible/1820/ROM.7.15-19

この言葉の後に冒頭にある言葉が続く。自分の神の前における罪の重さに気づき、その罪を解決するために、神様がご自分の御子であるイエス様を私に代わって十字架で死に至らしめたことを信じたクリスチャンが、信じた後に罪を犯す。これは本来絶対あってはならないことである。しかし、忠実に神様に仕える神のしもべであった使徒パウロであっても、救われたのちに自分の中に罪を見出すというのである。もちろんこれを書いている私もパウロと同様に救われてなお自分の中に罪があることを自覚している。またその罪の現実を悲しむものである。

しかし、それでも神様は、自分の罪の償いのために十字架で死んだイエス様を救い主として信じるクリスチャンを永遠のほろびから救うのである。それが、冒頭の聖書の言葉の意味するところである。なんという恵みだろうか。人の世界には絶対に見ることのできない恵みである。

クリスチャンが罪を犯すことは、人の世界で考えてみれば、莫大な借金を代わりに払ってくれる人がいたのに、また自分の欲のために借金を繰り返すようなものである。人の世界では、一度私財をなげうって借金の苦しみから解放してあげた人が、もう一度、私欲のために繰り返された借金を解決してあげることなどありえない。しかし、神様はそうではないのである。信仰に免じてもう一度赦してくれるのである。しかもそれがクリスチャン生活がこの世で続く限り繰り返されるのである。

クリスチャンはこの言い表すことのできない恵みにただただ感謝するしかないのである。そしてそれゆえに、少しでも自分の罪の生活を改め、神様のためにできることをしたいと願い、それを実行する生活をおくるのである。