人が置かれた時代と場所自体に意味がある。
rieruです。
先日下記の記事で聖書は食物が神から与えられたものであり、そこに神の人に対する愛情が現されていると記している事を紹介した。
しかし、これは食べ物を自分で作る事をしない人が大多数を占める現代の日本に置いてあまりピンとこない事かもしれない。そういう観点からすれば聖書の語る神の存在を知る事が困難な時代と場所に生きていると言えるかもしれない。だが、本当はそうではない。聖書は別の場所で下記のように語っている。
「また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」
使徒行伝 17:26-27 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.17.26-27.口語訳
ここで聖書が言っていることは「人が生きているいる時代と場所は神を見出すために神から与えられた舞台装置である」という事だ。人が生きている時代と場所は無意味ではなく、神見出すために必要なものが整えられたという意味がある。例えば、先の食べ物の話で言えば食べ物を直接作るわけではないが、「食べ物のできる仕組み」については格段に詳しく知る事ができるようになった。中高の生物レベルの知識でも植物が育つ仕組みは極めて精密にできている事を知る事ができる。その仕組みの精密さを調べれば調べるほどその仕組みを作った「製作者」の力を感じる事ができる。聖書は製作者こそ神だと教えている。
食物のできる仕組みを知り、その背後に「製作者」の存在を感じた時、その製作者を紹介している神の存在について検討することが先程紹介した聖書の言葉で言うところの「追い求めて捜」す事である。それをすれば必ず神を見出す事ができると聖書を語っている。時代や場所を問わず神はその存在を示している。問題は人がそれ心を向けるかという事である。是非神の存在という観点から今置かれている状況を考えて見て欲しい。そこには必ず神の存在を示す何かがあるらだ。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) May 31, 2020