聖書の語る福音について判断を下す事について。
おはようございます。rieruです。
今日は、聖書の語る福音について真剣に考えて判断をすべきという事を語りたい。まずは下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。
「ところが、ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた、 「この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています」。 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人たちに言った、「ユダヤ人諸君、何か不法行為とか、悪質の犯罪とかのことなら、わたしは当然、諸君の訴えを取り上げもしようが、 これは諸君の言葉や名称や律法に関する問題なのだから、諸君みずから始末するがよかろう。わたしはそんな事の裁判人にはなりたくない」。」
使徒行伝 18:12-15 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.18.12-15.口語訳
聖書はここでは人々に福音を伝える使徒パウロをユダヤ人が総督であったガリオに訴えた事について書いている。訴えた内容が信仰に関わる事なのでガリオはその事を「判断したくない」と取り扱わなかった。この時のガリオは「総督」として正しい判断をした。行政官が信仰についてジャッジする必要はないし、するべきでもない。
しかし、それが「人間ガリオ」としては正しい選択とは限らない。この時のガリオが私的にパウロの語る事をどう考えていたかは聖書から明らかではないないので断言できないが、仮に私的な立場でも「判断しない」というをとったならそれは間違いである。なぜならパウロの語っていた福音は全ての人の生死に関係する事だからである。
当時パウロが伝えていた福音、すなわち聖書が語っている福音は「永遠の刑罰からの救い」である。聖書は「全ての人が罪の故に永遠に火の池の中で神からの刑罰を受けるべき存在である」と教えている。そして、その刑罰から救われるためにキリストを信じる信仰が必要であると教えている。また、信じて救われたものは永遠に神と共に喜ぶ命が与えられるとも語っている。聖書の語る信仰による救いは永遠の刑罰と永遠の命を分ける分岐点である。
この事について人は「判断する事を」を求められている。「そんな非科学的な話は聞きたくない」とガリオのように判断を回避する事は容易い。しかし、それはちょっと待って欲しい。もし、判断を回避した結果、福音が真実であるならば判断はなかった人は永遠の火の中に投げ込まれるのである。真剣に考えた結果間違えたというならばまだ納得できるが、良く考えもしないで間違ったならその時の後悔は計り知れない。そもそも真剣に考えて間違ったのだとしてもその結果が火の池であったら悔やんでも悔みきれない。だから、少しの時間、判断を下すのは真剣に聖書の語る福音と向き合ってからでも遅くはない。キリスト教国の言葉ではない日本語で聖書の語る事を伝えているこのブログを読みに来るの方は、その大小はあるにせよ聖書に興味があるのだと推測する。ならば、是非福音について真剣に向き合った上で判断を下して欲しい。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) June 2, 2020