自分が永遠のいのちを持っているか確認する方法

救われたクリスチャンでも罪を犯す。その罪の現実にを見ると「果たして自分は救われたのだろうか」疑う気持ちが起こる。私も弱くちっぽけなクリスチャンなので時にこのような状態になる。そんな時下記の聖書の言葉を思い起こす。

「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:18-23‬ ‭口語訳‬‬
http://bible.com/1820/rom.7.18-23.口語訳

これはパウロという有名なクリスチャンが書いた言葉だが、パウロでさえも救われた後でも罪の現実に苦しんだ事が書かれている。しかし、それでもパウロは救いの確信を失う事はなかった。それは聖書の救いが行いによるのではなく、自分のためにに十字架で死んで下さった方を信じる信仰によるからだ。十字架で行われた贖罪の効果は信じた後に犯す罪によっても消される事がない。もちろんクリスチャンは罪のない生活を志す必要があるし罪を悔やみ改める事が必要だ。しかし、その事と永遠のいのちの問題は別であり、罪を犯したからといってその救いが取り消されることはない。

ただし、その罪の問題が救われていない状態を示す場合は別だ。不幸な事に救いの問題をうやむやにし自称クリスチャンになってしまうケースがある。その場合の罪の問題は深刻だ。救いの確信がないから罪を犯すことによって訪れる救いへの不安はこの上もなく大きいものになる。

この両者を分ける分水嶺は「善をしようという意志」である。神の前に正しい事をしたいという思いはあるが実行できない。それが救われているが、罪を犯してしまう人の状態である。救われていない人は神の前に善を行いたいという根本的な意志がない。

ここで勘違いしてはいけないのは「人から救われていると認定されたいからクリスチャンぽくふるまいたい」という思いと「善を行いたいという意志」は別物だということだ。救われていないのにクリスチャンと言われるようになった人は周りの人から「クリスチャン(救われた人)」と呼ばれる事で自分が救われていると思い込みたいという欲にかられてクリスチャンぽく振る舞う事がある。しかし、そこには全く救いはない。それは単なる形式にすぎずなんの効果もない。

この聖書の言葉でいうところの善を行う意志はそうしたよこしまな動機からくるものではなく、ただ自分を極限まで愛して下さった方である神に対する純粋な愛の現れである。私を愛して下さった方が望む事をしたい。そのシンプルな思いが善をしようという意志と同義であると素直に言えるならその人のうちには善を行う意志があるということである。そして私はそこに永遠のいのちがあると断言できるのである。