信仰による義にについて。
今日は。rieruです。
今日はローマ人への手紙の下記の部分を考えてみたい。
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」
ローマ人への手紙 1:17-18 口語訳
https://www.bible.com/1820/rom.1.17-18.口語訳
この部分一見すると脈絡がないように見える。神の義について、それは信仰によるのだと宣言したと思ったら、いきなり「神の怒り」という話が始まる。しかし、先を読み進めるとその意味が理解できる。ローマ人への手紙はこの「神の怒り」で始まる文からかなり長い部分をかけて「人の罪」という事を語っている。その結論部分が下記の箇所になる。
「次のように書いてある、 「義人はいない、ひとりもいない。」
ローマ人への手紙 3:10 口語訳
https://www.bible.com/1820/rom.3.10.口語訳
これは、人は生まれたままの状態では全て罪人であるという意味である。そして、この語らん部分に続いて下記のように記されている。
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。」
ローマ人への手紙 3:21-22 口語訳
https://www.bible.com/1820/rom.3.21-22.口語訳
これは罪の解決は信仰(キリストを信じる信仰)によるほかはないと意味である。ここに、冒頭の箇所で義は信仰によるという言葉に続いて神の怒りが語られている意味がある。神の怒りとは人の罪に対して下るものであり、罪について語っている。神の怒りという言葉から始まる膨大な人の罪についての記述は人の内には義はないという事を教えている。それは裏を返せば、義は信仰によって与えらる方法以外にないという事を意味する。だから信仰による義と人の罪がセットで語られているのである。
さて、信仰による義というのは単に信仰者が神に義と認められるというだけの事を示唆してはいない。信仰による義を受けたクリスチャンは実際に義となる。即ち正しい罪のない生活を送るという意味も含まれる。もちろん、いままでも本ブログで語ってきたようにクリスチャンも生きているうちは罪の性質を残しているので完璧には罪は取り除かれない。しかし、クリスチャンは神の助けにより、徐々に罪に打ち勝ち正しい生活をするようになる事も事実である。そのためにクリスチャンは努力をする。信仰による義にというと実生活はどうでもよいという意味を持ちがちであるが、本来的にはそういう事はない。信仰による義とは義と認められた後のクリスチャンの正しい生活を含んだ概念である。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) August 8, 2020