福音を語る時の動機

おはようございます。rieruです。

今日はクリスチャンが福音を語る時の基本的な姿勢について語りたい。まずは、下記の聖書の言葉をお読み頂きたい。

「かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。」
‭‭テサロニケ人への第一の手紙‬ ‭2:4‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/1th.2.4.口語訳

基本的な姿勢として、クリスチャンは福音を語る時の内心の動機として「神に喜ばれる」という事を第一にしなくてはならない。クリスチャンは神のめぐみによって救われたので、救いに関して神に対する感謝しかない。その感謝の気持ちから「少しでも神に喜ばれたい」という思いが湧いてくる。そして、「福音によって人が救われること」を神は喜ばれる。だからその事をクリスチャンは実現すべく福音を語る。それがクリスチャンかわ福音を語る時の基本的なスタンスであるべきである。

それ以外の動機で福音を語るべきではない。例えば、お金のために福音を語るとか、自分の名誉のために福音を語るとかはありえない。まあ、そこまで露骨に自分のために福音を語るというケースは多くないだろうが、クリスチャンと名乗り、福音を語っているのに「自分の何かのために」それを行なっているように見える人には注意したほうが良い。

rleru的に現実に注意したいのは、本来は神のために福音を語っていたのにいつのまにか自分のために福音を語ってしまうという事である。公に福音を語るというのは一つの演説をするという事である。基本的には神のために福音を語るわけだが、誠実に福音を語れば聞き手の心を動かす。聞き手はその感動を語り手に伝える。rleruもリアルに福音を語って感謝された経験が多少なりともある。その反応はすごく嬉しい。

基本的には福音を語って聞き手が感動するためには、神を喜ばせるという動機が必要である。それが正しく機能していて、神を喜ばせるために語った福音が結果として聞き手を感動させているなら問題ない。しかし、その経験が語り手を酔わせてしまい、いつしか「人を感動させるために」福音を語るようになるというのはあり得る話だと思う。自分の語っている事により人の心を動かすというのは非常に心地よく、それは時に神に対する誠実さを失わせるほどに魅力的である。それに負けないために、福音を語る時は常に神を喜ばせるという動機によっているかという事を自問自答しなくてはいけない。

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