優先順位を付ける事と問題を適当に扱う事は別物。
今晩は。rieruです。
少し前の事だが、下記の記事で初代の教会に置いて食事の問題が起きた時、それを解決する為に特別な人が選ばれた事について書いた。そして、その中で神の言葉を伝える事が最優先という基準でその事がなされた事に言及した。
上記の優先順位自体は正しい。食事の事に皆が心を奪われて神の言葉を伝えるという働きが疎かにになるのはおかしい。しかし、教会の中で起こる食事の問題がどうでも良いというわけではない。この時に食事の問題を解決するために選任された人の基準は下記の通りだった。
「そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、」
使徒行伝 6:3 口語訳
https://www.bible.com/1820/act.6.3.口語訳
ここで「御霊と知恵とに満ちた」とある。御霊とは神の霊であり、御霊に満ちたというのは神によって神の基準をよく教えられている事を意味する。そして、更に知恵が必要だった。この基準の意味は「クリスチャンとして成熟した人、何が正しいかを神の基準に従って適切に判断でき、それを実行できる人を選ぶ」という事だ。これは決して誰でも良いからとりあえず処理して欲しいというような適当なものではない。物理的な問題を蔑ろにしては神のための働きもできない。だから特に神の教えに精通していて知恵のある人が必要だった。
優先順位をつける事と事の大小を正しく見極める事は違う。食事の問題は神の言葉を伝える働きに優先はしないが、どうしても正しく解決しなくてはいけない問題だ。それがないと問題が再燃したり延焼して神の言葉を伝える働きも結局は疎かになる。rieruの経験上思う事は、善悪の判断は横に置いてとりあえず謝って仲良くやりましょうみたいな解決は再燃や延焼を起こす元である。ハッキリ白黒付けて解決するにはそれ相応の人材が必要である。そういう意味ではたかが食事の問題とはいえ蔑ろにしてはならない。
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優先順位を付ける事と問題を適当に扱う事は別物。 https://t.co/fkKvNFiLs5
— rieru (@Kyr20102Kyr2010) December 7, 2020