神を愛する生活するとはなにか。

今晩は、rieruです。

先日、下記の動画について個人的に質問を受けたので今日は少しその事を話したい。(この記事をより深く理解頂くために記事を読み進める前に動画をご覧頂けると幸いです。)

上記の動画では「人は神からのプレゼントよって生かされているのであり、そのプレゼントの管理者として神を愛する生活をする義務を負っている。そしてその義務を果たさないことが罪である」という話をした。これに対して「神の愛する生活」とは具体的になにかという質問を頂いた。

「神の愛する生活」の中心は神を敬う事である。まず神を礼拝することが必要である。クリスチャンが日曜日に礼拝をすることがその典型である。また、聖書を読む・祈るという行為も神を愛する事の例である。こうしたいわゆる信仰心から出てくる行いは分かりやすいがそれだけが「神を愛する」ということではない。

日常生活の普通の行動でもそれが「神のため」に成す行為であればそれは「神を愛する」という事の実践である。例えば、聖書の中には下記のように記されている。

‘わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、 人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。 ‘

テサロニケ人への第二の手紙 3:7-8

https://my.bible.com/bible/1820/2TH.3.7-8

この聖書の教えの実践という目的をもって自らの仕事に対して誠実であることは「神を愛する事」である。つまり、「神を愛するか否かは」という事は形式で決まるわけではない。何かをするときの動機が「神のため」であるのか否かという事が基準になる。もちろん目的が変われば行動も変わる部分もある。仕事の話で言えば、「自分のため」であれば、結果を出して周囲から評価されるなら多少サボっていてもよい。しかし、「神のため」神の命令の実践という事であれば、サボることなく常に誠実である必要がある。そういう意味では細部に変化は生じるし、それが本当に「神のため」になした行為なのかという評価基準の一つになる。

人が人生全体として「神のために生きているか」を考える場合には、少なくとも「自分のために生きている時間が神のためにために使う時間を上回る」ようでは神のために生きているとは言えない。ちょっとだけ神のために使っている時間が多くてもだめで、圧倒的に神のために生きている時間のほうが多いと断言できて初めて「神のために生きているかどうか」考えるべき段階になる。なぜかというとどうがでも紹介したように「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして」神を愛する事が神の基準だからである。

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