神を敬う事とキリストを信じる信仰は別物
今日は。rieruです。
今日はタイトルの通り神を敬う事とキリストを信じる信仰は厳密は別物という事について語りたい。聖書には下記のように書かれている。これはコルネリオという人について語っているが、これはコルネリオがキリストを信じる前の様子である。
‘信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。 ‘
使徒行伝 10:2
https://my.bible.com/bible/1820/ACT.10.2
キリストを信じなければクリスチャンではないが、このところを読むとコルネリオは「神を敬っていた」。これはつまり「神を敬う事」と「キリストを信じる信仰」が分離することがあるという事を示している。このことはクリスチャンが福音を語る時に注意しなくてはならない。特にいわゆるキリスト教国でない日本においては特段の注意が必要である。
なぜかというと、聖書の語る神を知らないで生きている人が「神を敬うようになる」というのは極めて劇的な変化だからだ。時々クリスチャンの先輩の話を聞くと聖書に出会って「仏壇を廃棄した」と言った結構ドラスティックな生活の変化を語る方がいる。これは「偶像を捨てる」という信仰生活において非常に大切な一面だが、実はキリストを信じる信仰の結果とイコールではない。これは「仏壇に神としての価値はない」という判断がある事は分かってもその先にキリストを信じる信仰があるのかないのかは別問題だ。なぜならコルネリオも神を敬わない国の出身だが神を敬う生活を始めたがキリストを信じる信仰がなかったからだ。
キリストを信じる信仰は「神を知る」というステップを踏んで後、「その神が自分に何を望んでいるのか」という事を考え、その結果として神の賜物(プレゼント)としてのキリストを受け取る事とで成立する。人によっては神を知る事とキリストを信じることは同時に起こることだが、そうでない人もいる。クリスチャンが福音を伝える時にはその区別をしっかりと認識する必要がある。なぜかというと「神を知っているだけでキリストを信じる信仰のない人を救われていると判断する事」はその人を地獄に突き落とす可能性があるからだ。それはクリスチャンが最もしてはいけない行為である。
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— rieru (@Kyr20102Kyr2010) January 24, 2021