神の教えがひとの言い伝えに変わらないためにクリスチャンがなすべき事。

今晩は。rieruです。

言い伝えというのは時にやっかいなシロモノである。下記のように聖書の中には先祖達の言い伝えにより神の教えを蔑ろにしたユダヤ人がキリストに叱責されている。

「イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭15:3‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/mat.15.3.口語訳

なぜユダヤ人達が叱責されたのかというと、自ら考え出した教えをさも神の教えであるかのように伝える人がいて、それが先祖代々受け継がれるようになってしまったからだ。

一方でパウロは下記の箇所でテサロニケのクリスチャンへ言い伝えを守るようにと教えている。

「そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。」
‭‭テサロニケ人への第二の手紙‬ ‭2:15‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/2th.2.15.口語訳

一見すると矛盾した教えに見えるがそうではない。パウロやテサロニケの信者へ手紙を出したクリスチャンは自ら考え出した教えを伝えたのではなく、キリストから受けた神の教えをそのまま伝えたからだ。彼等は何一つ新しい教えを付け加えたりしなかった。それゆえにそれが聖書の教えとして残されて今日に至るのである。

人は神の教えに何かを加えてはいけない。神の教えは全て聖書の中に記されている。一見すると今の時代には昔とは違う事情があるように見えるかかもしれない。しかし、神が作った世界の中で起こる事について想定外はない。丹念に聖書を読んで現実をよく見れば人間のなす事の本質は昔と大差はない。変わったのはそのツールぐらいである。

(勿論こんな事をクリスチャン以外の人に言っても?マークが頭に浮かぶだけだろうが、ここは一つ、全てを支配する全能なる神という存在があるという前提で考えて見てほしい。それがいるならば別に2000年前に人間の本質を全て書き記していたとしても不思議ではないはずだ。これを読んで頭に?マークが浮かんだ人は全能の神はいないという前提を抜きに聖書を読んで見て欲しい。聖書の中に存在する神を実感すればここで書いている事も絵空事ではないと分かるはずだから。)

さて、本題だが、その全能なる神の存在を実感したクリスチャンは神の教えを言い伝えに変えない努力が必要である。人の能力には限りがあるから、他人に伝える過程で誤解や誤りが発生する。それは他に存在する危険である。それを全くないようにする事は難しい。しかし、それが発生したした時に修正する方法はある。それは周りのクリスチャンが伝えられたものを吟味して修正すべきは修正するように誤りを伝えた人に進言する事だ。伝える側は常に間違う方を頭に入れて忠告は素直に聞く心が大事である。

聖書は下記のように互いに訓戒しあう事を勧めている。これは神の教えか人の言い伝えに変わらないために最も必要な事である。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」
‭‭コロサイ人への手紙‬ ‭3:16‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/col.3.16.口語訳

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