人が心の目が開かれるためになすべき事。

今晩は。rieruです。

ヨハネの福音書の9章に生まれつき目の見えない者がキリストによって癒されるという記事が出てくる。目が見えるようになる事と信仰というのは極めて密接な関係がある。キリストを信じる信じる信仰とは罪によって心の目が曇ってしまい神を見失った人が、心の目を開かれて神と神によって遣わされた救い主をハッキリと見えるようになる事だからである。ヨハネの福音書の9章の出来事は人が心の目が開かれるために必要なことが何かという事を示している。該当の箇所には下記のように記されている。

「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭9:1-7‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/jhn.9.1-7.口語訳

この癒しの奇跡な際、目が見えなかった人は極めて限定的な情報しか持っていなかった。自ら近くで、キリストがその弟子と自分が何故に生まれつき目が見えないのかという事を議論している。そしてキリストその理由は神の技が現れるためだと言う。ただそれだけの情報しか彼は持っていなかったが、彼はそのキリストの言葉を信頼し、泥を目の上に塗られた状態でシロアムの池まで行って洗った。彼がこれをした理由は定かではないが、当時はこうした重い病について「罪の結果である」という認識が一般的だったのでそういう言われ方に苦しんでいたので、キリストの言葉が刺さるものがあったのかもしれない。

それは定かではないが、彼の動機というのはあまり本質的な話ではない。大事なのは彼がキリストの言葉に反応したという事だ、そこに何かあるかもしれないと考え言われた事を実行した。そこに意味がある。キリストを信じる信仰の初めは神の言葉である聖書に対して興味を持って耳を傾けるという事だからだ。この目の見えない人はキリストの言葉に関心を示した。そしてそれがキリストの言葉をそのまま実行する事とそれによる癒しに繋がった。同じように今、神の言葉である聖書に関心を持ち耳を傾けるならは、そこに神の働きかけがあり、心の目が開かれる時が来る。その時人は神とキリストを心の目でハッキリと見えるようになる。

この時目の見えない人の前で語られたキリストの言葉は、今は聖書である。その聖書の言葉に耳を傾けるならばそこに心の目が開かれる道がある。少しでも聖書の語る救いに興味が、聖書の言葉に関心を持ち自らそれに向き合う時間を取って欲しい。そこに救いがあるのだから。

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