信仰による救いは神のプレゼントである。

おはようございます。rieruです。

聖書は救いについて下記のように語っている。

‘あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 ‘
エペソ人への手紙 2:8
https://my.bible.com/bible/1820/EPH.2.8

この言葉における一つのキーワードは「賜物」である。賜物とはプレゼントという意味である。つまり、聖書は救いは神の一方的なプレゼントであるとこの所で語っている。一応、上記の言葉にも救いの条件らしきものが書かれている。それは「信仰」である。少し補足するとこの信仰とは「キリストを信じる」という意味である。

しかし、この信仰と「救い」の間には全く釣り合いがとれていない。聖書の語る救いとは「神の罪の裁きからの救い」である。神の罪に対する裁きは「永遠に火の池の中で苦しむ事」である。人の罪というものは神の前にとてつもなく重い。それゆえに罪の裁きは「永遠の火の池」なのである。そこから救われるために必要なことが「キリストに対する信仰」のみである。「永遠の火の池」と「信仰」の間には全くつり合いがとれていない。

しかし、神は信仰に「永遠の火の池に値する罪をないものと見なすほどに」価値を認めてくれる。これは正に神の一方的な営みであり、「賜物」と表現するにふさわしい事柄である。人の側からみて「信仰」は「永遠の火の池に値する罪を帳消しにするほどの価値」はない。これは、例えて言えば死刑にされるべき罪について「反省していますのでどうかお許しください」と嘆願書を書くようなものである。当然、嘆願書程度で死刑に値する罪が許されることなどあり得ない。しかし、神との関係で言えば、「信仰」という嘆願書を神に対して書くだけで許される。

信仰による救いの本質とは「神が人に対して一方的に与えるプレゼント」である。それを人が信仰よって受けとる。それが救いの実現である。クリスチャンはこの救いの本質を覚えるたびに感謝し、救いをなしてくださった神とキリストのために生きる決意を強固なものとする。クリスチャンはこの救いの本質を生涯覚え続けるべきである。また、これを読んでいてまだ信仰による救いを自分の者としていない方には、これを信仰によって受け入れるようお勧めしたい。

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