物事に真正面から答えないという人の弱さ。

今晩は。rieruです。

今日はまず下記の聖書の記事をお読み頂きたい。

「そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。 ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。 すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。 それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭11:29-33‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mrk.11.29-33.口語訳

この記事で彼らとはイエス・キリストの時代のユダヤ人である。彼らはイエス・キリストの質問に正面から答える事をしなかった。彼らの考えた事はどう答えたら自分に都合が良いかという事だった。彼らにとって事実がどうかという事は全く関係なかった。

この個所を読むとつくづく人間は変わらないと痛感させられる。いつの時代も人は事実よりも自分の都合を優先するのである。例えば企業不祥事における記者会見などを見るとよく分かる。この手の会見は大概質問に頓珍漢な答えが返ってくる。そして、それは大概、事実を答えると自分や会社に都合が悪いからだ。その姿に対して多くの人は見るに耐えないと感じるものだ。

しかし、この手の会見で醜態を晒してもその場を凌げばなんとかなるということもある。TVやネットで非難を浴びても数ヶ月すれば話題にすらならない。その中には大したダメージを受けずに生活している者もいるはずだ。

だが、神の前にそれは許されない。少なくとも、クリスチャンと名乗る以上は神の前に自分の都合で問の答えを変えたり、事実を無視する方は許されない。仮にそれがクリスチャンの中で行われるならばそのクリスチャンはいずれ神からの報いを受ける時が来る。

ところで、これは、聖書の語る救いや信仰に興味がある人にも関係がある。信仰を、持っていない人に強制する事はできないが、聖書に興味があるならば、聖書と真っ直ぐに向き合って欲しい。聖書は時に人にとって耳が痛い書物である。できれば聖書は事実でないと結論付けたいという誘惑に駆られるのは仕方ない。しかし、どうか上記の記事に出てきたユダヤ人の指導者のようにならないで欲しい。例えどんなに聖書が耳の痛い書物でも、それだけを理由に聖書を敬遠しないで欲しい。人の事情を横に置いて聖書が真実であるか否かの検証をして欲しい。その結果聖書が真実でないという結論に至るならばrieruとしては諦めるほかないが、なんの条件も付けずに聖書と向き合って聖書を否定する事は簡単ではないとrieruは確信している。