人の内側にあるもの。

今晩は。rieruです。

昼休みにSPEEDのALIVEという曲を聴いていて、「こんな愛の歌を歌う人達が、愛してくれる人を裏切り、妻子ある人との不適切な関係を指摘されるようになるなんて皮肉だな」と思ってしまった。しかし、聖書を読むと人がそういう事をしても不思議ではないと分かる。聖書は人は全て罪を犯すものだと教えている。

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭3:23‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.3.23.口語訳

そして、人が罪を犯す様を下記のように記している。

「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」
‭‭ローマ人への手紙‬ ‭7:5‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/rom.7.5.口語訳

ここで言う肉にあった時とは、人の生まれながらの状態を指す。人のうちには罪の欲情が渦巻いている。それがどのように現れるかは人それぞれだが罪の性質は変わらない。誰しもが悪いと思っている事でもツイツイやってしまったという経験はあるだろう。それが罪なのである。それが社会問題になるような大きなものか、人に知られないような小さな問題かという違いはある。しかし、それは神の前に違いはない。人の目に大きな罪も、小さな罪も罪は罪である。

rieru自身の内側を覗いて見ると罪の欲情が確実に存在する。世の中の片隅で生きているrieruの罪は多くの場合は社会において問題にならない。一方、常にマスコミの好奇の目に晒されているの芸能人は些細な事でもスクープされ大々的に裁かれる。しかし、ひとの内側に存在する罪の欲情はrieruも芸能人も大差はない。それが多く外に現れるか、また、どれくらい現れたものが人に知られるかの違いでしかない。

外に現れたものや他人に知られたものだけが罪なのではない。人の内側にある罪の欲情こそ罪の本質である。だからこそ、聖書は全ての人が罪人であると断定するのである。