本物の信仰に至る道

こんにちは。rieruです。

今日はによる福音書13章に出てくる種まきのたとえについて。このたとえは人が福音を信じるという事に当てはめると解釈が難しい面がある。ただ、rieruの経験に照らし合わせるとすごくしっくりくる。今回はこのたとえがrieruの経験と符合する面をお話しすることによって、同じような境遇にいる方の参考にしてもらいたいと思う。まずは下記の部分について。

「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭13:20-21‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.13.20-21.口語訳

rieruはクリスチャンの家庭に育ち幼少期から福音を聞いていた。rieruは「自分が神の前に罪人であり、このまま死ねば神の裁きが待っていいる。それを回避するためにはキリストを信じるしんこうが必要」という福音は大事なものだとすぐに分かった。だからそれを信じた。だが、厳密には「信じたと思い込んでいた。」に過ぎなかった。なぜかというと、「福音の価値について真剣に検討する」というプロセスがなかったからである。

福音に限らず、「なにかを良いとおもってそれに飛びつくと、実はその物の価値を正確に理解しておらず、後々その本当の価値がわかる」という事は時折起こる。なぜかというと、真剣に検討しないで決めると「そのものや事に対する理解が浅く本質を理解していない」ということがおこるからだ。それを上記の聖書の言葉は「 その中に根がない」と表現しているのである。rieruの幼少期から持っていた「信仰」は「根がない」張りぼてだった。

そこから脱して「本物の信仰に至るためには「福音と向き合う」という事が必要だった。より具体的には「聖書は果たして本物なのか?」という根本的な問いからスタートして真剣に考えることだった。最終的な到達点は福音が本物であると確信してキリストを信じる事だが、その前提として「聖書は真実である」という事を改めて考えなくてはいけなかった。それは、rieruの「信仰」は福音の信じる事の大前提である「聖書は真実であるかいなか」という問いにすら満足に答えられなかったほどに「浅い思考」のもとに成り立っていたという事である。これはまさに「根がない」という表現がぴったりである。

ところで、「福音と向き合う」プロセスについては、下記のたねまきのたとえの解説の一説が非常に役に立つ。

「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭13:22‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.13.22.口語訳

本当の意味で「根がはる」と言えるほど深く聖書の言葉が心に入り信仰に至るには真剣に聖書と向き合う必要がある。ところが、「世の心づかいと富の惑わし」に相当する聖書以外のことを考えることが邪魔になる。個人的な経験から言うとある時期寝ても覚めても真剣に聖書と向き合うような状態にならないと信仰に至るのは難しい。rieruの場合2年ぐらい真剣に考えて最後の2か月ぐらいは普通の生活を送るのが難しいぐらい時間を割いて聖書と向きあった。

すべての人が同じ量の時間が必要と言うつもりはないが、ある時期自分が自由になる時間の大半を聖書と向き合うぐらいの真剣さがないと「浅い理解」から脱して「根が張る」と言えるようになるのは難しいと思う。

だから、rieruは今、「信じたと思っているが救われているか不安な人」や「聖書の語る福音に興味がある」という人には「とにかく自分の時間が許す限りトコトン聖書と向き合うこと」をお勧めしたい。聖書は下記のように約束している。この約束の「求め」ることこそ「とにかく自分の時間が許す限りトコトン聖書と向き合うこと」であるとrieruは確信している。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:7‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/mat.7.7.口語訳

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