罪は人の心にある。

今晩は。rieruです。

誰しも「誰も見ていないからこれぐらいの事はしても良い」と考えたことがあるのではないだろうか。世間体という言葉があるが、この言葉は世間体が悪いから〇〇をしないという意味以外に「世間体さえ良ければ実質的に悪であってもそれをして良いという考えが裏に潜んでいるように思う。人は、自分自身の内側がドス黒い何かに覆われたとしても、周りから綺麗に見えていればそれについて深く悩まないものである。しかし、聖書はそれを罪だと糾弾している。

「そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:39‬ ‭口語訳‬‬
https://www.bible.com/1820/luk.11.39.口語訳

これはキリストの言葉だが、当時の宗教上指導者的立場のパリサイ人の偽善を厳しく糾弾している。彼等は人の目には自らが清いとのかのように振る舞っていた。しかし、その内側にあるのは汚いものだらけだった。そしてそれは神の前に大きな罪だった。だからキリストはここでそれを糾弾しているのである。

これを読んでいる方々にお願いしたいのだが、聖書を読む時に「罪」とは人の心にある醜い心の事だと知って欲しい。聖書を読んでもそれが自分の事として捉える事ができない場合がある。その一つの原因は罪の概念が違うからだ。聖書が罪に対して厳しい計画を与えていてもそれが自分の事だと分からなければ何にもならない。そこをかえるには罪に対する認識を改める必要がある。その一つが神は人の醜い心、他人には隠されている醜い心を罪と認識するという事である。人は他人の心完全には読み取る事ができない。しかし、神は全て知っている。そう考えると自分の罪に対する認識も変わるのではないだろうか。

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