創造主なる神を信じることについて

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 (聖書、へブル人への手紙113節)

唐突ですが、「世界のはじまり」についてどのようにお考えでしょうか。多くの日本人はこの世界は進化によって成り立っていると説明します。しかし、クリスチャンはそうではありません。「この世界は神様が創った」と信じています。

「そんなことどうだっていいじゃないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。神がこの世界を創ったのであれば、「創造主に対してどのような態度で生きるのか」という問題が生じます。創造主が、創られたものである人間に対してなにを望んでいるのか」ということを考えなくてはいけなくなります。創造主は創ったものへ絶対の権限をもちます。聖書では創造主と創ったもの関係は「陶器師と陶器の関係」として例えられています。陶器が自分の作品に満足できないときにそれを廃棄することができるのは、陶器師がそれを創ったからです。同じように人が「創られた存在」であるならば、創造主に「不要である」判断された時「捨てられても当然である」という結論になります。

創造主の存在を前提とするとき、「創造主の意向」を確認する必要が生じます。それを放棄するなら創造主から「捨てられる」可能性が生じるからです。

一方、創造主がいないのであるならば、人はいかなる生き方をしようとも自由であるということになります。少なくとも「創り主に対する責任」という観点からは解放されます。

おそらく、一般的な日本人は「世界のなりたち」について、確固たる確信をもってはいないでしょう。なんとなく学校で教えられた進化論が正しいと感じている。といったところではないでしょうか。この問題は、自分で検証することなくとりあえず「世間の常識」を受け入れておけば良い問題でしょうか。私はそうではないと思います。「創造主がいるのかいないのか、いるとしたら誰なのか」という問題は、極めて重要な問題です。私は聖書の中に答えを見出しました。なので、聖書からこのことを語りたいと思います。

聖書は神についてなんと言っているでしょうか。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められる (聖書 ローマ人への手紙120節」

これは、つまり、神様が創った物を検証したら、創造主なる神が分かるという意味です。例えば、人体も神の創造物ですが、非常に複雑で良くできたものです。酸素を吸ったら体を動かすエネルギーができるとか、暑い時には汗をかいて体の熱を下げるとか、色々複雑で体を維持するために素晴らしい機能が備わっています。これが設計図もなしに、創り主もなしにできるでしょうか。例えば、将棋のプロやチェスのプロに勝てるスーパーコンピュータに創った人がいないと主張することは愚かなことですが、それよりも複雑なシステムを持つ人間に創った人がいないと主張することは、それと同じくらい愚かなことですよ。と聖書は語っているのです。

是非、一度この聖書の言葉を自分なりの方法で「検証」してみてください。この世界は神様の創ったもので溢れています。スーパーコンピューターでさえ、その素材はすべて神様が創ったものです。人間はそれに手を加えているにすぎず、無から有を創ることは人にはできないのです。世界にあるものを注意深く観察すれば創り主なる神の力を感じることができます。これは理論や理屈の問題ではなく、実感し体験するものです。大切なことは知ることではなく、知らされたことを自分で考え、検証することです。そこに神様の力を感じるという経験が伴います。聖書の言葉を実際にそれこそ、創造主なる神への信仰が生まれる土台となります。

念のため、もう一度繰り返しますが、信仰は理屈ではありません。「被造物を見れば創造主が分かる」という聖書の「理屈」に説得されることではありません。かつて私は、この「理屈」を根拠に世界は神様が創ったと思っていました。だからある時、別の理屈が私に反論してきました。それは「被造物を見て創造主が分かるとしても、その創造主は聖書の神であるとは限らないのでないか」というものでした。その時私はその理屈へ反論することができませんでした。

そこから、私の「追い求め捜すこと」が始まりました。いろいろ考えた結果でた結論はそもそも「聖書の言葉自体に力がある」ということでした。私にとって聖書は単なる文字ではなく、私の心を刺す神の言葉であり、神の力でした。その現実が明らかになった時、本当の意味で「被造物を通して創造主なる神様の力を感じること」ができるようになりました。それは理屈を超えたことでした。

間違ってほしくないのですが、考えることや、検証することは理屈(筋道)の世界です。その理屈を世界をさまよう中で、神の力という見えないものを発見することが信仰につながります。

創造主なく神の存在を感じた時人の人生は間違いなく変わります。最初にお話ししたとおり「創造主の意向」について考える必要が生じるからです。この神様の意向についてはまた次回お話ししたいと思いますが、それが人にとって極めて重要であること知っておいて頂きたいと思います。

それではまた。

福音

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