平安な義の実を結ぶ神の訓練

今晩は。rieruです。

ヘブル人の手紙に「神の訓練」について下記のように語られている。

「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、 「わたしの子よ、 主の訓練を軽んじてはいけない。 主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、 受けいれるすべての子を、 むち打たれるのである」。 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭12:4-11‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/heb.12.10.口語訳

この訓練は「主に責められる」という表現や「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」という「罪と戦え」というメッセージの後に語れている事、その結果が「平安な義の実を結」ぶ事である(訓練の前は義でない事が示唆されている)から、罪を犯した人を責めるという意味がある事が分かる。また、前後の文脈からするとこれはクリスチャンになった人を神が訓練するという意味である。

以上の事を加味するとこの訓練は救われたクリスチャンが神から罪の報いとしてこらしめられるという意味である事が分かる。この訓練についてクリスチャンは良く分かる。罪を犯した時に神から責められている感覚はクリスチャン本人が1番良く分かる。

クリスチャンはこの訓練と向き合わなくてはいけない。この訓練は辛いものだが、そこから逃げると更に苦しくなる。しかし、逃げずにそれに耐え、その上で心を神の方に向けてクリスチャンとしての歩みを再開する時に解放される。そして、それはクリスチャンとしての正しい歩みに繋がる。この正しい歩みとは義の実であり、そこには平安がある。

クリスチャンが罪の道を辿るとそこには平安はない。クリスチャンはできる限りこの訓練の必要のない義の実を結び続ける人生でありたい。

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