いつまでも残るものに目をむける。

今晩はrieruです。

聖書はいつまでも残るものとそうでないものがあると語っている。例えば、下記の箇所がその例である。

「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭12:26-28‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/heb.12.27.口語訳

ここで、いつまでも残るものは「震われないもの」、残らないものが「震われるもの」と表現されている。そして「震われるもの」は「造られたものとして取り除かれる」と書かれている。造られたものは端的に言えば今私たちが生きている地上の事である。今生きている地上はやがて滅びる。そう考えた時に、この地上でどんなことを成し遂げても、それが地上に属するものである限り無に帰することを知るべきである。例えば、歴史上偉大な事を成し遂げてそれが後世に語り継がれるとしても、その後世自体が消えたら語り継がれることもなくなる。

しかし、神によって「震われないもの」に属する事は永遠に残る。ここでは「震われない国」という表現でその事が記されている。これは分かりやすく言えば天国(神のいるところ)である。天国において神に称賛されることであれば、それが滅びゆく地上でなされた事であっても「無に帰する」事はない。

だから、やがて「天国に帰る事」を確信しているクリスチャンは滅びゆく地上でのなにかよりも、「天国において神に称賛される事」を求めるのである。しかし、これを実行するためには確固たる信仰が必要になる。この地上の事は目に見える。しかし神は目に見えない。目に見えない事に注力することは人に取って難しい。目に見える事に惑わされてそれを求めてしまう事はクリスチャンにもある。だが、それを続けてはいけない。クリスチャンは常に「目に見えるものに惑わされていないか」をチェックしなくていけない。言い換えればそれは「永遠に残るもの」のために自らの生活を使っているかをチェックする事でもある。それは日々クリスチャンが顧みないといけない事である。

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