キリストにからだが与えられた事の意味。

今晩は。rieruです。

今日は下記の聖書の一節について語りたい。

「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、 「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、 わたしのために、からだを備えて下さった。」
‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭10:5‬ ‭口語訳‬‬
https://bible.com/bible/1820/heb.10.5.口語訳

ここで言う「いけにえ」や「ささげ物」はキリストがこの世に誕生する前に神が人に罪の償いとして求めたものである。あなたとは「神」の事である。ここでキリストは、神はいけにえやささげ物の代わり自らに「からだを備えた」

いけにえやささげものとキリストのからだとは一見するとなんの関係もない。しかし、それは大いに関係がある。なぜならば、キリストのからだはキリスト自らが、罪のためのいけにえになるために与えられたものだからである。キリストはからだを受ける前から永遠の存在として天に存在したが、からだ(すなわち肉体)を持っていなかった。からだを持たない限り死というものはキリストに存在し得ない。しかし、神が罪の代償として求めるもの死であった。罪を犯した人の代わりに他人が死ぬ事でしか、罪の償いはなし得ない。これが神の原則である。その償いを実行するためにキリストはからだを持ってこの地上に来た。

キリストのからだは神の裁きを受け、果てしない苦痛を経験するために与えられたものだった。そして、それは人の罪を償い、その人が神の前に罪を許されて神の元に戻るためであった。

さて、キリストが罪を償った人にとは誰か。それは全ての人だというのが聖書の語るところである。残念ながら私達人には罪が存在する。それは時に外には見えないものだが、どんなに外から見て清い人でも、心の中にはそれが渦巻いている。それが人の現実である。その罪はやがて永遠の裁きをもたらす。そこからの救いはキリストを私のために死んで下さった救い主だと信じるしかない。

キリストはこの世に生まれた時から、十字架の死に向かって生きていた。私達の罪の償いの死のために生きていた。その死のために神はキリストにからだを与えたのである。

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