他人を自分より優れたものする

今晩は。rieruです。

今日は、自戒の意味を込めて「他人を自分より優れたものと思うこと」について書きたいと思う聖書は下記のとおりクリスチャンの間で「互に人を自分よりすぐれた者と」することを進めている。

‘何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 ‘ ピリピ人への手紙 2:3
https://my.bible.com/bible/81/PHP.2.3

これはシンプルだが大切な教えだ。人は生来の性質として「他人の上に立ちたい」と願う心がある。そのために「他人より自分が優れている」と思いたい。この性質はクリスチャンになっても変わらない。だから、他人の粗を探し、それを見つけて他人を裁くことで自分を「より優れたクリスチャンである」と思い込ませたくなる。私自身も自分のことを顧みてもその傾向があることを認めざる負えない。

しかし、それは聖書の教えとはかけ離れたことだ。聖書は「他人をすぐれた者である」と思い合うことを勧めているのだから。ではそれがどうしたら実現できるか。基本はまず、こうした自分自身の中にある悪に勝つことができるよう神に祈ることだ。どんなことでも人は神の助けなしに神の命令を実行することはできない。

そして、その上でrieruが重要であると思う点は「自分自身の愚かさを見つめる」ことだ。そもそも、人は自分に甘く他人に厳しいものだから「自分のことを棚にあげて」他人を責める傾向にある。誰かの粗をみつけてそれを裁こうとする時「自分にもその弱さがないか」を考えれば多くの事はその弱さを自分のうちに見つけることができる。それができたとき、むやみに他人を裁くことから逃れることができる。

また、例えその時問題となっている事柄において自分は強いとしても、他の部分では弱さがある。人間得意分野と苦手な分野がある。人の弱さも同じであり、一人一人個性がある。自分はこの点は弱さがないとしても、他の事柄では多いに弱かったりする。rieruの場合人に忖度する弱さはあまりない。しかし、感情をコントロールすることが難しい。むやみに怒ったりする点においては本当に弱い。そしてその点で犯す罪について神様に言い訳することはできない。言い訳できない弱さを見つめる時、「他人を裁くこと」から逃れ「他人を自分より高く」思うことができる。それが「他人を自分よりすぐれたもの」と認識する秘訣である。